ファンクラブの会報誌タツローマニア29を読んでいたら興味深い特集がありました。
- 竹内まりや ”カムフラージュ"
- ブルー・コメッツ "青い瞳"
- タイガース "シーサイド・バウンド"
- スパイダース "バン!・バン!・バン!"
- テンプターズ "神様お願い!"
- ゴールデン・カップス "銀色のグラス"
- モップス "朝まで待てない"
- マイク真木 "バラが咲いた"
- 森山良子 "この広い野原いっぱい"
- 高石友也"受験生ブルース"
- フォーク・クルセダーズ ”悲しくてやりきれない”
- 五つの赤い風船 "遠い世界に"
- ジャックス "マリアンヌ"
- 高田渡 "自衛隊に入ろう"
竹内まりや ”カムフラージュ"
これは冒頭の宣伝ですね。
60年初期と後期を分けるのがビートルズ。
日本では異常と言われるまでのベンチャーズを中心とするエレキブーム、これまで歌手を主体だったのがバンド主体になって、1966年末頃からグループサウンズと呼ばれる動きが一世を風靡するします。わずか3年のブームだったとのこと。100近いバンドがレコードを出したけど二曲以上ヒットがあるのが10くらいと一発ヒットのオンパレード。とタツローさんは述べています(BURUTUS SONGBOOK)
上記の本には「オックスの失神事件」でブームが終わったとあります。(P81)
GSがサイケデリックな文化だった(NHKから国民を守る党)P82
商業化してしまった P83
「日本のロック70S 」には「歌謡曲とGSの間を埋める重要な存在」(P23)
下記の本のP23に萩原健太さんがGSに興味を失った理由として「ほとんど従来の通う今日と同じテイストの作品までが、単にエレキギターをフィーチャーしただけしたコンボ編成で演奏されているという理由でGSとしてひとくくりにされていた。」
ブルー・コメッツ "青い瞳"
1966年 7月発売
元々は米軍キャンプ回りのバンドマンで結成。メンバーの入れ替わりが、1963年に井上忠夫(大輔)が加入が大きいと思う。
1967年の美空ひばりの「真っ赤な太陽」のバックも名演。
ジャッキー吉川とブルー・コメッツ Blue Comets/青い瞳 Blue Eyes(日本語)(1966年)
タイガース "シーサイド・バウンド"
1967年5月5日発売 作詞:橋本淳/作曲・編曲:すぎやまこういち
瞳みのる、岸部一徳(当時は修三)、森本太郎、加橋かつみで結成
沢田研二が加入。1969年科加橋かつみ脱退→岸部シロー加入
1971年解散
2020年8月28日に岸部シローさんなくなりました。
ザ・タイガース The Tigers/シーサイド・バウンド Seaside Bound (1967年) 視聴No.37
スパイダース "バン!・バン!・バン!"
かまやつひろし、井上順、堺正章が中心のメンバー。
田辺昭知は「田辺エージェンシー」社長
1967年10月「バン・バン・バン」が「いつまでもどこまでも」のいカップリングとして
かまやつひろしさんは2017年3月1日死去
テンプターズ "神様お願い!"
なんといっても萩原健一。
1968年の3月の作品。タツローさんがGSのベスト、松崎由治さんは作曲能力あるとベタ誉め(タツローマニア87)
この記事も参考に
https://news.1242.com/article/138537
ゴールデン・カップス "銀色のグラス"
1967年11月15日発売セカンドシングル
タツローさんは「生演奏が良かった」と評価(タツローマニア87)
横浜でデイヴ平尾を中心としたバンド
柳ジョージ(ソロで活躍)
ミッキー吉野も一時期在籍。後にゴダイゴを結成。
ザ・ゴールデン・カップス The Golden Cups/銀色のグラス Love Is My Life (1967年)
下記の本で土屋昌巳さんがゴールデンカップスについて書いてます。
難波弘之さんゴールデンカップスの追っかけだったんだ(P95)
こちらでもゴールデンカップスの評価高いです。(上の本と執筆陣が一緒だからかも)
メンバーの面々の情報
2020年10月4日のサンデーソングブックでもかかっていました。よく通ってみたと池袋のジャズ喫茶「ドラム」
ロックバンドだけど通うヒット曲を出さなくてはいけないのが個性となった。圧倒的な演奏力だった。
ケネス伊東の唄のうまさが好きだったと。
2020年9月1日にマモル・マヌーさんが死去
2020年9月26日にルイズルイス加部さんが死去
モップス "朝まで待てない"
1967年。サイケデリックロックと位置づけられるモップス。先ほどの「日本のロック70S 」にも、サイケデリックって言葉を最初に使ったとあります(P92)
鈴木ヒロミツ、星勝、三幸太郎、村上薫、スズキ幹治
この中だと星勝が有名だろう。井上陽水が有名かな「リバーサイドホテル」など。
編曲はRCサクセション「シングル・マン」TOPやミッキー吉野参加。
や上田正樹「悲しい色やね」安全地帯など多数。
鈴木幹治は浜田省吾のプロデューサー。
映画でも「セーラー服と機関銃」「おもひでぽろぽろ」など。
ザ・モップスTHE MOPS/朝まで待てない Asamade Matenai (1967年) 視聴No.50
アメリカではこの頃ベトナム戦争を背景にして。反戦歌をギター一本で歌う「フォークソング」が盛んに。
これがピート・シーガーやウディ・ガスリーなどを中心ぶNYのグリニングビレッジでおこった。
マイク真木 "バラが咲いた"
森山良子 "この広い野原いっぱい"
1967年作品。当時19歳!
日本のフォークソングはこれとは全く別の形ムーブメントとしてフォークソングがでてきた。
1967年に始まった深夜放送(高度経成長に伴い、深夜まで受験勉強をしている受験生のために番組を作ろうと言うのが元らしい)これが60年代、70年代安保などの政治など音結びついてプロテストソングや、メッセージソングと呼ばれるものに自然発生した、トのこと。
高石友也"受験生ブルース"
1967年
もともとはBob Dylan "North Countory Blues"
ボロ・ディラン(真崎義博)がカバー、
さらに中川五郎が「受験生ブルース」として、高石ともや
高石ともや(友也)さん
こちらの本に結構色々でています。
P112 フォーク・キャンパースに在籍していた長野隆なる男が(5つの赤い)風船にはいりたい,,中略、高石の許可を得なくてはいけない。
高石事務所は、社会風刺や政治的内容が強く、また過激である事もあり(全てではない)、多くの曲が発売中止という憂き目に遭った(P121)
一通り読むとかなりパンクな人間なんじゃないかな、と思います。
この本では岡林信康さんのこと。(ジャパニーズロック03でタツローさんが触れます)
70年に加川良がフォーク・ジャンボリーで一役スターになった(P202などがあった)
吉田拓郎への流れなんかが書いてあります。
さらにこの本にも詳しい
フォーク・クルセダーズ ”悲しくてやりきれない”
1968年の作品。帰ってきたヨッパライが有名
北山修、加藤和彦 、平沼義男、井村幹生、芦田雅喜、はしだのりひこ
加藤和彦は2009年10月16日逝去、もう10年なのか。
エッジの効いた作品が多かったですね、サディスティック・ミカ・バンドも作ったし。
はしだのりひことシューベルツ、で色々活躍していましたが2017年逝去
富永寛之さんのレビューが秀逸
悲しくてやりきれない
「メロディを弾いているだけで歌詞が浮かんでくる非常に優れた作品なのはメロディと歌詞のダイナミクスがすごく合っている証拠」
こちらでは「あの素晴らしい愛をもう一度」の部分では下記のように述べています。
1971年加藤和彦、北山修コンビの名作による、言わずとしれた有名曲。当時のグループサウンズからフォークソングへトレンドが移行していくキッカケの1つとなったのは、彼等にはしだのりひこをくわえたフォークルセイダーズや岡林信康などの活躍があってのことです。
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古井戸の加奈崎芳太郎さんの、本の中の加藤和彦さんの記述が面白い。
日本で4本しか入ってこないマーチンD-45かったとか、毛皮きていたとかロールスロイス乗っていたとか
五つの赤い風船 "遠い世界に"
1969年の作品西岡たかしが中心。メンバーはいろいろ入れ替わりあり。
一時有山じゅんじや中川イサトが在籍(随分ギタリストに恵まれたバンドだな)
当時有山じゅんじさんは高校生で親からのクレームで脱退したなんてありました。
西岡たかしさんについては、この本に詳しく色々書かれている。
ジャックス "マリアンヌ"
1967年作品。日本のサイケデリックロック。
The Jacks • Marianne マリアンヌ (1968) Japan
このあたり人達は、タツローマニア53に
西岡たかしの「遠い世界に」とかフォーク・クルセイダーズのようなオリジナルの素晴らしい曲が生まれている。
はしだのりひことシューベルツの「風」なんかも名曲
ジャックスと言えば中心メンバーは早川義夫さんでしょう
あと、後期のドラマーがつのだ☆ひろ
高田渡 "自衛隊に入ろう"
1969年作品。こちらはフォークですね。タツローさんは武蔵野たんぽぽ団をよく見た。とありあます。
以前はサンソンで結構かかりましたよね。
まとめるとロカビリーブーム→ビートルズ前後のGS→フォークなんていう流れだったようです。
フォークの流れについてはこの本がとても参考になりました。
山下達郎が1953年2月4日生まれ、なぎら健壱が1952年4月16日生まれだから同級生なのか、、、そういえば以前のサンソンでなぎら健壱の「悲惨な戦い」がかかってびっくりしたんだな。どこかに落ちてないかなと思ったらありました。
相撲の曲と言えばこれしかないでしょ。なぎら健壱さん。1973年のアルバム『葛飾にバッタを見た』これに収録されておりますが。当時これは放送禁止だったんです。今は違いますけども。曲の内容がですね、お相撲さんの、まわしが落っこちると言うエピソードでございまして。 pic.twitter.com/W1n1JM9OSr
— 山下達郎-bot (@tatsurotalkin) April 16, 2020
こちらの本の中で、タツローさんが
「僕らより一回り上の60年代安保の世代は「文学の世代」、70年代安保の世代は「音楽の時代」と言われて、戦後のフォーク、ロック、そういう新しいサブカルチャーとしての音楽を作った」
最後は脱線しました。
Spotifyはこちら
参考になりました。
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