山下達郎
Moonglow
1979年の4枚目
タツローマニア 015 (1995年秋)から印象のに残って思い出せるところを箇条書き
・Bomberのスマッシュヒットで全国ツアーの道が開けた
・79年4月に先行シンルグルLet's Kiss the Sunを発売
・78-79年に桑名正博が大きくブレイク
・78年末のライブはポンタ、79年に入ってからユカリ、田中章弘、難波弘之、椎名和夫とツアーの練習を始めた。
・Bomberが何故売れたのか分からない、けど神輿に乗ろうと思った。レコード業界のシステム、宣伝、販促、営業がどのように動いて行くか知りたかった。自分がプロデューサーになったときにプラスだろうと
・フジパシフィックにデモテープを渡す予定だったけど、全くできていなくて。原宿のパレ・フランセの前で Flying all day 時を超えーのメロディが魚感で、スタジオを借りてレコーディングをして、美奈子歌詞を書いてもらった。ヘッド・アレンジだからロックンロールかディスコか分からない。
・RIDE ON TIMEより曲調は圧倒的に渋い(リズム隊が違うからかもしれない)
・この頃はブラックミュージック一辺倒だったか。「SUNSHINE」以外はポリリズム
・FUNKY FLUSHIN’は会心作
・GO AHEAD!に比べると迫力に欠けるのはミキサーのせい
・ベン・E・キングは今でも十分鑑賞に堪えうる、おなじ61年ポール・アンカは全くダメ。オーディオの問題。デイブクラーク・ファイブ、スペンサー・デイヴィス・グループはOk、ホリーズは録音をいじりすぎていて、今聞くともの凄く陳腐
・RIDE ON TIME,FOR YOUはプロデューサー的、MELODYSからシンガーソングライター的にに
・ユカリがたたけない曲は作らない。
・CRICUS TOWNやESCAPEみたいな曲は入っていない。
・この頃偶然に青山純にあった。79年秋からメンバーを変えてツアーを行なった。
- 夜の翼
・日本語のドゥーワップを作りたくてたまらなかった。
・SF作家のロバート・シルヴァーバーグの「夜の翼のイメージ
・SFよりファンタジーが好き。ブラッドベリ、ビアス、エドガー・アラン・ポー、ラヴ・クラフト、白鯨のメルヴィン。フレドリック・ブラウン
・ハインラインの「夏の扉」に感動して、一時期ハインラインの小説をむさぼるように読んだ。・
・「夏の扉」は難波弘之君のソロ・アルバムのために作った曲。美奈子の詞が先、もう一つ「苺色の窓」というブラッドベリの小説家からインスパイアされて作った曲がある手塚治虫のイラストがジャケットになっている難波君のアルバム(センス・オブ・ワンダー)に入っている。
- 永遠のFull Moon
・Let's dance babyの二番煎じ、スネアのポイントを変えた。
・このリズムパターンはマイアミのTKサウンド。マイアミにジェイムス・ストラウドという作曲家としても優秀なドラマーがいて、その人がつくる様な曲にしたかった。
・この頃はマイアミ・ソウルに結構凝っていた。KC&サンシャインバンドとか
- Rainy Walk
・アン・ルイスのアルバム(ピンクキャロット)をプロデュースしていたときのアウトテイク
・高橋ユキヒロ、細野晴臣、佐藤博、松原正樹というメンツ
・この曲のパターンは典型的なシカゴ・ソウル。Chi-Lites, heaven & Earth、Dells, Gene Chandlarいわゆるシャイサウンドでノーザン・ソウル、それを一人でコーラスを立てた。
・ユキヒロのドラムがシカゴソウル、モーリス・ジェイニングス、クリントン・ジョセフみたいな感じ;
Storm
・基本はシカゴ・ソウル
・Lost Generationとかああいう感じのサウンドを目指した。
・Chi-LitesのColdest days of my lifeみたいなSEを入れたいと思った。
・ポンタ、岡沢章、松木恒秀、佐藤博のメンツ。このメンツでBLUE MIDNIGHTを作ったが、MELODIESまで持ち越した。
- FUNKY FKUSHIN'
・ローランドのリズム・ボックスを持っていた。
・ルンバ、サンバとか特定のリズムパターンが入っていて、同時に3つ押すともの凄いリズムができた(ポリリズム)
・偶然できたリズムパターンを使った。そこにメロディを載せた。美奈子には軽薄な歌詞を書かせてもうまい
・スネアのバランスが異常に小さい。2トラックしか使えないし、サンプリングもなかった。
・Greatest HIts!でもう一回録音した。
- HOT SHOT
・もろにアイズレー・ブラザーズ。Winner Takes Allをずっと聴いていた。
・ドラムがユカリ、ベースが田中章弘でアイズレーをやらない理由がない。
・ライブでの再現性を重視して作った。
・ダンスチューンを入れれば入れるほどアルバムとしての質は下がる。
・10年竜と捨て曲になるような曲をわざわざ作りたくない。
- TOUCH ME Lightly
・GO Ahead!のアウトテイク
・キング・トーンズの為に書いた曲で、クリス・モスデルのかしが先にできていて後から曲を付けた。
・内田さんに裏声で歌ってもらおうと思っていたから、モーメンツとかワットノーツのようなオール・プラティナム系のニュージャージー・ソウルを医師k示威して作った。
・アップテンポよりバラードが好き。ビートルズにしてもデイヴ・クラーク・ファイブもアップテンポな曲をすべて飛ばしてビコーズとかカム・ホームの様なバラードしか聴いていなかった。
- SUNHINEー愛の金色ー
・これはアース、ウインド&ファイアの曲にフィーリン・ブルーという、元フィフス・アベニュー・バンドのケニー・アルトマンが作った曲があって、ああいうやりたいと思って作った。8ビートの曲を作りたいと思って作った。
フィフス・アベニュー・バンドのジョン・リンドもEW&Fのブギーワンダーランドの作者
- Yellow Cab
・これは単純なお遊び。ジョニー・ギター・ワトソンのみたいにソロが弾きたいと思ってそれだけの同期。
・朝五時まで歌入れをしていて、声が割れていた。心残りがある。
・NYでタクシー乗ってひどい目にあったことを美奈子に話して歌詞にしてもらった。
- 愛を描いてーLet's KIss The Sun-
・Flying all dayーのフックから作った
・形式的によくできているから好み
これは1000万円かけて、24トラックで録音した。Moonglowが10万枚うれて、レコード大賞のアルバム賞を獲得した。「やっと売れてきたな」とおもった。
桑名正博の「セクシャル・バイオレットNo.1」はナンバーワン、竹内まりやも売れた。
79年秋から伊藤広規、青山純でツアーを始めた。
PMPとの2年間の契約が切れて自分で原盤をもつために、ワイルド・ハニー(現スマイルカンパニー)という会社を作った。このときのスタッフと16年間ずっとやっている。
タツローマニア080 (2011年冬)
にはこんな感時のことが書いてあった。
Go Aheadを発売したときに一度だけやったライブは村上秀一、岡沢章、松木恒秀、坂本龍一、難波弘之と豪華なメンバーだったが、ギャラが高かった。
ツアーは、ユカリm田中章弘、難波弘之、椎名和夫のメンバーで回った。
青山純と伊藤広規にあって、色々な曲ができるようになった。
ライブで演奏する事を前提に考えた。ポンタもユカリも得手不得手があった。
レコーディングがタイトで最後の一週間は毎日徹夜だった。
基本は5リズムの一発録り。
コンピューターレコーディングになっていく。
ぼくの中の少年の曲の半分くらいはライブで演奏できない。
バリーホワイトなんかはブラスが日本人で、リズムセクションも1.5流。
コモドアーズとかEW&Fの用にレコードと同じ糸がしていて、あっちの方が良いかな。とおもった 。
その当時は10万枚売れたら1年食えた。
81-82年は有線、地方局、地方のタウン誌が全盛だった。
テープレコーダーが24トラックになった。
テープもスコッチの206を使って猪野が、アンペックスの456にした。
トラックが増えた分細かくなった入出力レベルでいかに底上げするか。
音が湯がみっぴくなる。
スピーカーも2ウェイが3ウェイのJBL4325になった。
Ride on Timeのマスターテープがあまり好きじゃない。
(録音は)For You あたりで納得するようになったが、その後はデジタルになった。
トレンドを入れないとヒットパターンはできない、人がやっていないトレンドをやるしかないと思った。
永遠のFull Moonはマイアミのマラコ・レーベルのドロシームーアとかの路線
Funky Flush’はあの当時のポリリズム
Stormはフィリーのバリエーション
Rainy WalkはシカゴのR&B
日本ではやっていなかったから結構穴を狙った。
ウォークマンがでてきたのが大きい。
車なんかに乗って情景を聴きながら聴くと全然違う、アイズレーもインドアかアウトドアで全然違う。
ルーティンは買えないで、バリエーションを付けて行く事が難しい。
ヒット曲のメドレーが嫌い。
どんな曲も完奏する。
アレンジは曲の一部だから全然違う曲でやるなんて考えられない。
Melodies
1983年の7枚目 クリスマス・イブが入っている名盤。
タツローマニア 020 (1996年冬)より印象に残ったところを、名言
メロディは思いつき、冷感という名の偶然が、教育的な論理性に手助けされて生まれる。
自分自身の言葉で歌いたくなった。
81-82年は日本のアナログ・レコーディングがピークを迎えていた。
大滝詠一さんやRCサクセションの歌詞を聴いていて男の言葉は良いな、と思っていた。
自分の音楽がリゾート音楽ととらえられていてもう少し内省的な音楽をしたいと思っていた。
流行り物じゃない音楽をやりたかった
このアルバムはGo Ahead!に近い。楽曲の統一感のなさ、カヴァーのオタク度。
「クリスマス・イブ」の真ん中のア・カペラは1日がかりで作ったんだけど、家に帰ってカミさんにきかせたら「これはすごい」って感心してた。
このとき30歳、これから先の5年間何をするかは自分にとってすごく重要だった。
2-3年でだーっと売るだけ売ってぱっと散るのもありだったけど、それをミュージシャンとしての自分が許さなかった。
ムーン・レコードの役員で、稼ぎ頭だったから、自分のわがままだけ押し問う訳にには行かなかった。
このアルバムが地味なのはカッティングとプレスのせい
僕が歌詞を書く上で持ち続けているテーマは、都市生活者の抱く疎外感。そういうものと男のロマンティシズム。レイ・ブラッドベリ的なイリュージョン
GO AHEADのあとFOR YOUまで16ビートの音楽をやり続けた。ブラックコンテンポラリーが16ビートなんだけど、日本語をのせにくい。
クリスマス・イブは一人多重録音だし、悲しみのJODYは一人で演奏しているから、あのグルーブがでない。
だんだんライブがやりづらい。この時点からレコード至上手技
FOR YOUの延長でやったら80年代後半で息切れしたかもしれない。
引き出しが多いから生き延びた。16ビート、8ビート、洋楽邦楽。ファンクの帝王だと思っている人がいたり、ビーチボーイズオタクだと思っていたり、自分はプロデューサーだと思っている。
トレンドを意識してつくっていないからからイマでも干渉に耐えるとおもったりる。
「夜翔」は弦とブラスを入れない方が良かったと、当時のトレンドを入れてしまった。
ロックインロールにおいてはスモールコンボの演奏こそが時代の推移に耐えうる。
楽器の選択にもトレンドがあって、ホンモノの楽器をやるかシンセをするかでも、流行に左右される。
70年代中期のフィリーソウルはサウンドは古くさくない、同じことやっている80年代の中期のソウルだとシンセの音が陳腐。
娘に「ゲーセンの音楽?」と言われた
クリスマスイブはまりやの「ポートレイト」のために書いた。6年以上経ってナンバーワンになったから良くわからない。
高気圧ガールは17-18位で50まんまくらい売れた
- 悲しみのJODY
TBSラジオの「サウンズ・ウィズ・コーク」のために作ったテーマソング
Sounds of coke =She was cryingと言う洒落。
サーフィンホッドロッド
サウンドがエコーが深くかかった諸フィルスペクター
ビーチボーイズ風の曲をファルセットで歌うのは、僕しかやらないから差別化になると思った。
テナーサックスは井上大輔さん、キング・カーティスやジュニア・ウォーカーの様なサックスをやらせたら日本で一番うまいのは井上さん。「スプリンクラー」のサックスもソロをやってもらった。たった8小節だけど、ぐいっと引きつけるロックンロールなソロ
- 高気圧ガール
全日空のCMタイアップ
歌謡曲的にみればヒットパターンじゃないけど、自分ではよくできている。
イントロがアカペラとパーカッションで始まると言うパターンは他の追随を許さない得意の路線の曲。
-2000マイルのと頃のコード進行とか、こういったパターンミュージックが理想
- 夜翔 Night Fly
ニュージャージー、フィラデルフィアのSweet Soulといった曲調
オケはシカゴのカール・デイビスと言うプロデューサーが手がけていたシャイサウンドのような路線。ユニバーサルスタジオで製作されていた、ジーン・チャンドラーとかウォルター・ジャクソンとか、そういう路線。
リズム隊のくみかた、アレンジ、吉田保さんのエコーと相まって、シャイ・サウンド風。
キーボードは佐藤博。素晴らしい
- Guess I'm dumb
ブライアンウィルソンのカバー
あの超絶ボーカルをやってみたかった。
難しかった。
年をとるとだんだんゴージャスな音が駄目になる。フレディー&ドリーマーズみたいな薄い音が良くなる。
- ひととき
ピアノの弾き語り。潮騒のNO2
ベースはムーグ・トーラスというペダルシンセを手で弾いて
ギターはブルース・ラグホーン(ともラッシュのバックをやっていた人)そのギタリストみたいなフレーズをトーキングモジュレーターを通して弾いている。
- メリー・ゴー・ラウンド
アイズリーブラザーズクローン
Bomber,Hot Shot, Slilent Screamerm, Love takin'の流れ
自分で歌詞を書いているかオケと合っているか不安。
この手の音楽は風俗的になものだから、思想的なものをぶち込んでいるから、プログレッシブ系のミュージシャンがファンクをやっているような違和感。
ビーチボーイズだって複雑なコード進行にたわいもない歌詞が載っている
女性ファンが多い
- Blue Midnight
フィリーソウル。最初はフィリーソウル調でもなかったけど
松木恒秀、岡沢章、渡嘉敷祐一、佐藤博というめんつだと、自然とヴァンマッコイみたいになってしまう。
結構うまく歌えた。
- あしおと
典型的なノーザンソウル
70年代初期のカーティス・メイフィールドみたいなコンボ編成の音楽は前々古びない
ストリングスとブラスは諸刃の剣、このアルバム以降は減る。
- 黙想
弾き語りの一発撮り
クリスマス・イブ
ギターを4-5本重ねてリフをつくった(村田和人のらいぶで~
間奏でクラシックになって、最後はアソシエーション風
メロディは思いつき、冷感という名の偶然が、教育的な論理性に手助けされて生まれる。
新譜ジャーナル1983年8月号のインタービューがタツローマニア37 (2001年春)に掲載されている。「男のロマンティズムを出したかった。」
タツローマニア91 (2014年秋)ヒストリーオブ山下達郎から印象に残ったところを。
スプリンクラーはノータイアップのシングルを出したかった。
オリコンで34位まで上がった、けど、ムーンレコードのスタッフからは大ブーイング
Melodiesの時に2台のマルチトラックレコーダーを同期させて、調走させるさせるシンクロナイザーが入ってきてダビングが楽になった。
六本木のソニーのスタジオには16チャネルと24チャネルのレコーダを並走させた。
24チャネルのレコーダーはヘッドの幅が狭いのでそれ以前の16チャネルと比べてダイナミックレンジが狭い。
84年のBig Waveから16チャンネルは廃棄で24チャネル。
TR-808でデモを作った。
フェンダーローズを買った。
スプリンクラーは表参道(のイメージ)、池袋から出る自分にはモダンだった。
ユーミンの作詞はずば抜けていた。
コーラスも随分オーディションして超絶的にうまい訳じゃないけど、言うとおりにやってくれる人に参加して具体的な欲求を実現できる環境になってきた。
80−81年頃は地方では理解されなかった。裏声で歌う男とか、インプロヴィゼーションが永井とか。
ラジオやタウン誌で地方プロモーションをしていて、きちんとエアプレイしてくれる。
景気も良いし、音楽もアイドルが全盛だったけど、ロック、フォークも盛り上がってきた。
フュージョンでも
渡辺貞夫、カシオペア、スクエア玉でいた。
オンスト2のWhite Christmasは後で録った。
ブレスをきちんと組みたてて、エコーをかければ、繋いだなんかなんて変わらない。
フォーフレッシュメン¥のスタイルでやってみたかった。結構採譜していたが、結構歌唱の難易度も高い。
White Christmasは非常にめんどう。曲の解釈もうるさいし、アヴァンギャルドも駄目。
Big Wave
1984年のサウンドトラック
タツローマニア38 (2001年夏)タツローマニア 95 (2015年秋)から印象に残ったところを。
・小杉理宇造さんのアイデが元々
・日本ヘラルドが映画化の話になる。
・アルバムつくる制約はなかった。
エンドレスサマーやサーフィンムービーは見ていた。メロディーズくらい売れた。
MAGIC WAY、Only with You、ビッグ・ウェイブのテーマを拡大した。
アラン・オデイは仕事が早い
サーファーは社会生活不適応者で、波の上が安住の地がいめーじだった。
プロフェッショナルのサーファーは酒もタバコもやらないストイックな人、
ファッションで、ハワイ辺りでハッパを吸いながらゴロゴロしている現実逃避しているなどにいくつか種類がある。仲間とワイワイやる者ではない。
アメリカでは複数で仕事をするのが普通。
リチャード・ロジャース&ハーマン・スタインII世
このアルバムではアランと徹底的にディスカッションした。アラン・オデイは叙情が日本人に近い。
ホット・ロッドを意識していた。B’52などのガレージロックにとっていられた。サーフィンの代わりにギターを弾いたからサーフィンミュージックその程度、カリフォルニアで生まれた音楽だから夏に合う。
トッド・ラングレンのような1人多重録音でビーチボーイズをやりたいと思っていた。
ビートルズだとWith the beatlesが重要。ビーチボーイズは最初の5枚が重要。Surfar Girl, Little Duke Coope, Shut down, all summer long, beach boys today
夏だ!達郎だ!のイメージ
日本でビーチボーイズを再現している仲間なんていなかった。だからベースを広規に手伝ってもらって、他の楽器は自分で多重録音をする。
海外で出そうと言われたけど、興味がない。
テスト盤が届いたけど、EACH TIMEより2−3db低い。ソニーの工場まで文句を意に行った。カッティングエンジニアが何度も切り直して納得する弟になった。
EACH TIMEはテスト版で、マスターサウンド(高音質重量盤)だった。同じ音圧になってよかった。工場まで来たのは自分と松田聖子だけ。
CIRCUS TOWNも高品質塩ビだったけど、企業秘密で教えててくれなかった。
ツアーが完売になる。この頃は不摂生、31歳。
84年から86年のスランプはデジタルレコーディング。
SonyのPCM=3325PC買ってゲームやっていた。
デジタル化の問題
テープレコーダーがの性能がアナログレコーダーの足元にも及ばない。
しょぼくて、平板な音像で、楽器同士が是z年ブレンドされない。
1980年初頭Mcー4というローランドのシーケンサーが必須だった。4声しかでない、mcー8という8声でるのいもあったけど、使うのが煩わしい。ヤマハのDX7というシンセキーボードが出た。
オーバーハイムとかプロフェット5などアナログシンセサイザーはいいけど、DX7は本物のエレピにくれべると腰がよかわった。
今はどうにでもなるけど、当時はどうしようもなかった。
DX7であらんずば人にあらず。みたいな流れで、同期ものをするしかなかった。
RCPというシーケンサーソフトはNECのPC8801で動かすソフトだった。
ARP ODYSSEYを持って帰ってきて勉強した。シュガーベイブ時代
Spacyの「きぬずれ」「言えなかった言葉を」
GO Ahead 「潮騒」のベースなんか。
中古のARP ODyESSEYを一台買って、シンセとドラマシーンを買って、POCKET MUSICを作った。
テクノ系はベースとドラムをマシンにして、上物を手引き
自分は逆で、ベースとドラムは生でキーボードをシーケンサー駆動。
当時のLINNとかオーバーハイムのDMXのドラムマシンの陳腐さが嫌いだった。E-MUはVer1は使えない。Pocket MusicはVer2.0、Ver3.0になってようやく使い物。
風の回廊」の左右のコーラスはサンプリング。
ゲートリバーブでを使わなかった。(リバーブでかけた残響を、ノイズゲートで意図的にカットする)
16ビートには鬼門グルーブが死ぬから、8ボートならまだいい。
70年代に僕が一番影響された音楽のミックスは、リズム・セクションにはリバーブを一切かけないで、ストリングスやボーカルにリバーブを深くかけて奥行きを出す。
リズムセクションが目の前で、後ろにブラスト弦が居て、リバーブで距離感が出ている。
自分で打ち込んでTR-808、スタジオでレコーディングする。
一旦デジタルになったらアナログになれない、仕事が来ない。
土曜日の恋人は売り込みに行った。ひょうきん族
ああいう曲調の曲はスタジオプレーヤーに嫌がれられた。
スタジオミュージシャン全盛期。通り一遍のアレンジを初見でぱっとやって日銭稼いでハワイにでも行く。大滝さんはそういうんものに疲れたんだと思う。
五人が一緒に演奏してグルーブのカオスになって十人分くらいの価値になるのが本当のえんそう。
札束で引っ張ってきて、人を育てない仕組みだった。
商業音楽の宿命。
周りに優秀なオーディオの人がいた。
ユーミン、吉田美奈子を手掛けた、アルファレコードの吉沢典夫
RVCのチーフで日本のミキサー会のドン、内村映ニさん
松本隆さんの弟でエンジニアの松本裕さん
ビクターのマスターエンジニアの小鉄徹さん
吉田保さん
そういう人はスネアのEQ、マイクの立て方、リバーブの使い方や特性を教えてもらった。自分でミキサー卓に座ろうとは思わなかったけど、歌の硬さ甘さ、大御所でもちゃんと教えてくれた。神輿に乗って自動的に成立してどういうメカニズムで動いているか知らない。シンセサイザーのリース代が高かった。小杉さんが怒ってからシンセの会社をつくった。85年にスマイルガレージに移ったけど、機材的にも納得していない。
ルームがライブ(残響がおおい)ので、気に入らなかった。、LINNのドラムとDX7の2台のシンセ。宅録の機材を買った。80年代のデモは全部これでデモテープを作った。
PCM-3324がでて大変だった。
マシンのパワーがなさすぎてキックのパワーが合わない。気付くまでの3ヶ月かかった。pc9801がでたらこの問題がなくなった。100ms程度普通にずれる。
優秀なシンセのオペレーターがいたが、自分好みの音ではなかった。だから自分で作るしかなかった。VCFを1目盛あげてとか、そういう指示ができない。
このないないずくしの数年間が打たれ強くしてくれた。プロツールスの導入が2、3年遅れてしまった。そのための都合6年くらい棒に振った。POCKET MUSICはBIG Waveと同じ状況、システムで作られていたら、最高傑作になった。
- Big Waveのテーマ
NHKの特番の時に作った曲
ギターの線が細い。この点だけは後悔。
ライン取りじゃなくて、アンプを鳴らせば良かった。
このときはデジタル・リバーブDREー2000を全面的に導入した
- JODY
Melodiesに入っている、悲しみのJODYを英語詞にしてリミックスした。
英語の発音を色々絞られた。
アラン・オデイはファンキーでアーシーな曲が好きで、ブギ・ピアノやハーモニカが信じられないくらいうまい。デューク・ピーコックのコンピレーションが好き。
どうしてそういう曲をやらなかったのか?ときかれたら「僕はビートルズで変わったんだ」とのこと
- Only WIth You
ブルース・ジョンストン&テリー・メルチャーのドント・ラン・アウェイという当時激レアのCDみたいな曲を作ろうと思った。ドラムはアール・パーカー。こういうのを何でもパクリと言うヤツが困る
- Magic Ways
オンスト3のAngelという曲があって、エルヴィスプレスリーの持ち歌で、クリフリチャードのヴァージョンでヒットした。これが大好きで。16ビートでしたててた、この曲のギターは自分しか弾けない
- Your Eyes
これはリミックスバージョン。アラン・オデイの英語歌詞でしようとおもったから入れた。
- I Love you…Part II
サントリーのCMに書いた
I Love Youだけでどう書けと、、、
- Girls On The Beach
アルバムのために録音した曲。
All Summer Longの曲で、Surfer Girlの延長線上にある曲。
曲はともかくボイシングが妙。言われるほど緻密じゃない。誰かが手伝っているんじゃないないか。フォー・フレッシュメンのライブアルバムにビーチボーイズを茶化している盤面がある、サーファーガールをキーを高くして歌っている。高校時代に採譜したのを31歳のときに参考にしながら、ビーチボーイズのいろいろレコーディングした。
デニス・ウィルソンが発売の一年前に死んで追悼を兼ねて売れたた。
- Please Let Me Wonder
これはスプリンクラーのBメン。
原曲はモノラルレコーディングで採譜がとても大変。
吉田保さんが歌い直しの部分だけミックスした、こっちの方が面倒くさそうだけど、、、
- Darlin’
これは高気圧ガールのB面で一番難しい。特にドラムが難しい。SpringsのThinkin’ Bout Youと言う元曲がある今やるとしたらWe Gotta Get Out Of This Placeとか
- Guess I’m Dumb
ブライアン・ウィルソンがグレン・キャンベルに書いた曲。大阪のフォーエバー・レコードに通って居た70年代に書いた。どうして、もう少し奥行きのあるリミックスにしなかったのか?とおもった凄くシンフォニックな曲で、ウォーカーブラザーズのようなシンフォニックなミックスでやった方が良かったと思った。ルイ・フィリップのバージョンにはロックンロールが感じない。
- This Could Be The Night
ニルソンの曲で、MFQがカバーした。
Rare Masters2で初めてお見えした。ブライアン・ウィルソンのオールタイムフェイバリットと書いてあって、なんでこのベースラインなのかと?
ちゃんとツーファイブで作れば良いのに。編曲はジャック・ニッチェにしては雑、ミックスも良くないし。コーラスのヴォイシング良くない普通のコード感と普通のミックスでやるべきだとおもって録音した。デジタルリヴァーヴだから近代的な響きになっている。サックスソロをいれたが、ギターソロにしておけば良かった。
- I Love You…part 1
120秒バージョン
映画は余計な者を入れないバージョンの方が良かった。
当時のドルビーサラウンドは定位感はぼやけるわ、アタックはないでで
80年中期のブラックミュージックはドラムがマシン、ベースがシンセで古色蒼然だけど(アトランティクスター)
僕の場合は楽器が生楽器だからそれほど古くさく聞こえない
竹内まりや "いのちの歌”
2019年末のNHK紅白歌合戦で歌っていましたね。
残留
4/4 通算600/1783 残したモノ/チェックしたモノ
ポチお願いします!